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新居浜港の歴史&新居浜市の環境&新居浜大築港&新居浜市の都市構造&絵葉書による土地利用履歴調査

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新居浜港の歴史

昭和初期の大規模港湾整備以前の新居浜港地区。背後の煙突は惣開精錬所。
戦前の新居浜港桟橋

 新居浜港の一帯は、かつては愛媛県東部の一漁村に過ぎず、僅かに尻無川の河口付近に木船が数隻停泊できる程度の港であった。1691年(元禄4年)に住友家による別子銅山開坑以来、その産銅をはじめ需要物資の海陸運輸の中継港として反映の歴史を歩み始める。

 明治以降、別子銅山を中核として、住友系の企業があいついで立地したことにより、工業港として港勢は著しい発展をみた。

 太平洋戦争後、港勢は日本経済の復興、発展とともに順調に伸張し、四国有数の工業港となり、1948年貿易港に指定され、1951年には重要港湾に指定された。さらに、1953年には港務局が設立され、公共埠頭が造成整備されるなど、従来の住友系企業の私港的性格から脱皮した近代港湾としての体制を整えた。以後、住友グループと新居浜市とが共同で港湾整備を進めてきた。

 その後、1964年に新居浜市を含む東予地区が新産業都市に指定され、新居浜港はその中核として開発されることとなり、港湾諸施設の整備が進んだ。港湾整備計画に基づき、1966年に東港地区追加による区域拡張、1969年には磯浦地区が東予港東港地区として東予港に編入された。

 東港においてはフェリー岸壁(-7.5m)の整備を進め、1988年には阪神との間にカーフェリー航路が開設されている。また、東港においては近年の余暇時間の増大に伴うレクリエーション需要に対応し、新居浜マリーナが完成している。
 こうした経緯から、新居浜本港は住友グループの工業港、東港は工業港プラス、レクリエーション港の性格を帯びている。
  • 1879年(明治12年):完成。
  • 1886年(明治19年):大阪商船(現:商船三井)寄港開始。
  • 1933年(昭和8年):新居浜築港事業計画による大規模港湾整備着工。
  • 1939年(昭和14年)同計画完成。
  • 1948年(昭和23年)1月:開港、貿易港に指定される。
  • 1948年(昭和23年)1月:神戸税関新居浜支所開設。
  • 1951年(昭和26年):重要港湾に指定される。
  • 1953年(昭和28年)12月1日:新居浜港湾局発足。
  • 1964年(昭和39年)1月:東予地区が新産業都市に指定される。
  • 1966年(昭和41年):東港地区が追加される。
  • 1969年(昭和44年):磯浦地区が東予港に編入される。
  • 1973年(昭和48年):バンパックフェリー就航。
  • 1980年(昭和55年)9月:東港多喜浜岸壁供用開始。
  • 1982年(昭和57年)4月:東港多喜浜岸壁に貨物定期航路就航。
  • 1988年(昭和63年)4月:東港に四国オレンジフェリー就航。
  • 1996年(平成8年)4月:新居浜マリーナ供用開始。
  • 1998年(平成10年):バンパックフェリー廃止。




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愛媛県史 社会経済4 商 工  (昭和62年3月31日発行)

「えひめの記憶」 - [愛媛県史]

愛媛県史 社会経済4 商 工   (昭和62年3月31日発行)

二 新居浜大築港

 大築港の動機

 新居浜町(現新居浜市)は、江戸時代から住友、特に別子銅山と密接不可分の関係をもっていた。ところが、その別子銅山の存続について大きな問題が生じた。
 昭和二年(一九二七)七月、住友合資会社から別子鉱業所が独立し、住友別子鉱山株式会社となった披露の席上、突然、事業地新居浜の最高責任者である鷲尾勘解治が、「別子銅山の鉱石は残り一七年分しかない」という鉱量調査の結果を発表したからである。
 この発表は、当時の新居浜町長白石誉二郎をはじめ町当局者に大きな動揺を与え、住友銅山終了後の新居浜の生きる道を考える動機を与えた。

 これに対して鷲尾は、住友銅山終末後の地方後栄策として次のような提案を行った。
  一、築港により新居浜港を改修して大型船舶の出入を可能ならしめること。
  一、沿岸埋立による工場敷地を獲得すること。
  一、化学工業の拡張を図ること。
  一、機械工業を起こすこと。
  一、大都市計画を樹立すること。
  一、市民に企業者と共存共栄の思想を涵養すること。

 鷲尾がこのような提案をしたのは、住友銅山の鉱石、なかでも硫黄分を多く含んだ硫化鉱を利用する肥料製造工業の拡張と、鉱山会社の機械課を母体とする機械製造工業を念頭に置いていたからである。また新居浜が工業都市として発展するためには、まず道路、港湾といった産業基盤を整備した後に、都市計画が必要であると考えたからである。
 鷲尾は、新居浜港の築港を彼の言う地方後栄策の第一要件とし、一部には住友内部で強い反対意見もあったが、昭和四年六月二十四日、愛媛県に新居浜築港計画を出願した。
       
 町会の意見

 住友鉱山の出願に対して愛媛県は、新居浜町の意見を求めてきたので、新居浜町会は同年七月六日に次のような「新居浜町答申書」を愛媛県に答申して事業の進行に賛意を表明した。

 「本町は地勢上海陸連絡の使命を完うすべく大港湾を設備し以て運輸交通の要衝となるべき事と、強固なる基礎を有する大工業の発達により諸般の産業又自ら進展するに至らしむる事とは、〔町是〕の二大眼目にして百年の大計ここに存するを疑わず。今回住友別子鉱山株式会社が出願したる築港計画の要旨は、本町を一大工業地帯化するを目的とし、これに伴う築港を設備し、一面公益に資せんとするものにして、同会社が抱持せる自家の事業と地方の福利とを調和せしめんとする根本方針に基づきたるものなれば、如上の町是と合致するものにして、その規模の広大実に国家的事業に属す。従ってその速成せられん事を切望す。蓋し漁業組合との関係は会社に於いて既に直接に交渉を開始せるを以て、円満解決の速やかならんことを欲して止まざるものなり。」

 第一次築港計画の内容

 『新居浜市史』によると、第一次築港計画の内容については、昭和四年七月、鷲尾が新居浜漁業組合代表と懇談の席上、図面をもって次のように説明している。

 「現在埋立中(肥料製造所北側八万坪)の続きを御代島まで延ばし、約二万四千坪埋め立てて港の西側を塞ぐ。金子川口の電気分鋼所西北部を揚地の各々一部切り取り新居橋の処まで浚渫。
 西原、中須賀地先で約七万四千坪とその東の入川口筋に六五間残して向新田高須地先で一一万二千坪埋立。尻無川口堀割西側より七〇間向側を御代島に向かって防波堤八〇〇間突出す。防波堤東側菊本海岸地先において約一〇万坪埋立。

 御代島白石鼻より一〇〇間の防波堤突出し港口を一六五間とする。御代島前で約一万坪埋立。
 港内浚渫は図の如く、浚渫深干潮水面下三〇~三五尺、公有水面使用は護岸を去る五〇~二〇間。
 港外西側で約五万坪、その西一〇〇間幅の入川を残し西谷まで約一一万坪埋立。
 以上埋立七区合計四八万坪。なお右は大体の計画で全部一度に施行するのでなく、防波堤は迅速に着手、その他は事業の必要に応じて着工、港外西端二区は銅山尾鉱の捨場として自然に埋める。
 右設計によって竣成した暁には、新居浜が四国第一の港となり、高松、今治港湾の如きはこの港の規模に比べてきわめて小さいものとなると、しかしてもし会社だけ必要の港湾であれば、現在の防波堤を少し補足すれば十分であるが、末期に及んだ銅山経営が終末を告げた後の対策として、新居浜町全体を包括した地方全般が利用できる港とするのである。」              (鷲尾常務口述)

 計画の実施と漁業者の反応

 住友別子鉱山株式会社は、大築港計画を発表する以前に、惣開港改修工事に着手し、昭和二年(一九二七)年、新居浜肥料製造所(住友化学の前身)の北側に海面八万余坪の埋立と、惣開港内浚渫を計画した。昭和三年七月、住友は公有水面の埋立について、漁業権にかかおるので新居浜漁業組合に同意を求めた。この埋立は、直接的には窒素製造工場新設の用地造成を目的としていたが、住友は、これが新居浜大築港につながるものであることをかなり明確に示唆していた。
 新居浜漁業組合は、これは単なる漁業権の問題ではなく、新居浜の将来にかかわる重大問題であるとして、まず新居浜町の態度が決定されることを希望した。この後の経過を当時の新居浜町長白石誉二郎は、昭和七年六月二八日、「築港防波堤が近く起工されんとするに至るまで」『新居浜市史』において、次のように説明している。

 「斯くて七月一六日町会に於いては地方発展を満場一致を持って其の事業の実現を期待し、一に漁業組合の同意を希望することとなり其の翌々日、本問題に関する漁業組合総代会の席上に町長及び町議会議員の代表者谷口、青野の両氏も参会して公有水面埋立に関する町の意見を吐露し其賛同を求めた。一時は突然案件として多少の衝動を与えたようであったが僅かに数十分間にして頗る透徹したる諒解の下に明朗なる回答があった。
 曰く地方発展のためには漁業者自家の利害を超越して漁場の一部を提供し公有水面埋立に同意する既に斯く決心する以上は敢えて代償を要求せぬ唯だ併しながら将来事業発展して人を要する場合は同能力のものならば漁業者の子弟を優先的に考慮してもらいたいそして之を文書に遺してもらいたい。」

 漁業組合がこのように決議した背景には、新居浜における住友と漁業者との密接な関係があった。新居浜町内における漁業世帯四〇〇戸のうち、住友関係会社に雇用されているものは既に二三〇人にのぼっていた。また、衰退傾向にある漁業からの過剰人口の就職先として、住友関連会社が期待されていた。さらに、新居浜地方の漁価が比較的高価に保てるのは、住友の事業地であることによると考えられていた。

 昭和四年の大築港計画においても、基本的にはこの関係は変わらなかった。四八万余坪の埋立によって前回とは比較にならない広範囲の漁業権を放棄することになるため、漁民の中には死活問題を訴えるものもあった。これに対して白石町長・町会議員・漁業組合役員らが積極的に補償問題で動き、町自体も漁業振興資金や漁業救済資金の積み立て、漁業組合基本財産の確保などの措置をとった。その結果、昭和四年一〇月の漁業組合総会において満場一致で無条件同意が決議され、会社は、組合に対して四万円を寄附して謝意を表した。

 新居浜大築港計画は、これより先の昭和四年九月に愛媛県からの事業認可を受けていたが、当時の経済不況のため着工はかなり遅れ、会社で再度の計画変更の結果、昭和八年五月に着工した。計画の概要は、一、総工費一〇〇〇万円、二、防波堤九一〇m(東七〇九、西二〇一)、三、浚渫土量六〇〇立方m、四、海面埋立一六〇平方mであった。

 着工以来五年を経て昭和一三年(一九三八)三月、この大工事は完成し、新居浜港の基礎が確立された。新居浜港は、単なる運搬港から大工業港へと港の面目を一新し、造成された工業用地には、昭和九年ごろからの戦時体制の波に乗り、各種工場の新増設が行われた。

 昭和九年二月、住友肥料製造所が住友化学工業と改称、同年六月、非鉄金属製錬業である住友アルミニウム製錬が設立され、同年一一月、住友別子鉱山新居浜製作所が住友機械製作所(現住友重機工業)として発足した。また、同年には、愛媛県下では初めての化学繊維工場である倉敷絹織の新居浜工場が、大江地先の埋立地に誘致された。(この工場は、戦時中に廃止され、のちに新居浜化学工業となった。)惣開地先埋立地の機械工場も拡大され、昭和一一年五月、菊本地先埋立地にアルミ製錬工場や電力供給のための火力発電所などが建設された。
         
 第二次築港計画

 大築港と呼ばれる第一次築港工事の完成後、臨港諸工業の新設拡張によって、新たに港湾を拡張し整備する必要性が生じてきた。このため昭和一六年(一九四一)二月、主として本港区の西側を対象とする第二次築港計画がたてられ、昭和一六年四月、住友鉱業株式会社名で公有水面埋立、防波堤築造、港内浚渫が愛媛県に出願され、昭和一七年八月に許可された。しかし、この改修工事は、着工後戦局の激化のために、一部が埋立てられただけで中止され、終戦を迎えることとなった。

図用1-1 新居浜港修築計画図
図用1-1 新居浜港修築計画図
図用1-2 新居浜港第二次築港計画図(昭和17年)
図用1-2 新居浜港第二次築港計画図(昭和17年)





「えひめの記憶」 - [愛媛県史]

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予東部)          (昭和63年2月29日発行)

四 新居浜市の都市構造

 臨海工業地帯

 工都新居浜のあけぼのは御代島築港であり、惣開の開発である。

 明治六年(一八七三)に住友汽船白水丸・廻転丸が寄港するようになると、住友では明治八年に御代島を大型船接岸要地として修築した。以後、惣開地区における工業発展と並行して、金子川口で水浅く干潮時には枯渇する状態であった惣開港の防波堤築造、浚渫などを逐年施行していき、さらに昭和初期の新居浜大築港へと展開することになる。

 明治一七年(一八八四)惣開に新居浜製錬所が新設され、この地工業化の第一歩を踏み出したのに続いて、二二年(一八八九)には西町にあった住友分店(住友事業所口屋)を惣開に移転し、併せて工作所を設けた。さらに惣開付近一帯を工場地帯とする計画のもとに、二七年隣地塩浜跡及び海面埋め立て工事を起こし三二年(一八九九)までに広大な用地を確保した。三二年八月の別子水害を機として山中の諸施設をここに移転して事業場の中心としたため、惣開には工場が増築され、住友社宅、学校(明治二八年、惣開分教場)、住友銀行新居浜支店(三〇年、のち昭和通りへ移転)、病院(三二年、住友病院、現在の住友別子病院は三代目で昭和四一年二月完成)、郵便局(明治三六年、惣開郵便局)等軒をならべ、金子川以西に工場市街地が建設された。かくして大正・昭和に入り住友諸工場は益々拡張充実され、市内には独立資本による会社工場も興っていった(図4-21参照)。

 新居浜市北西部の臨海地域は、埋め立てによる用地造成と工業拡大の歴史であった。

 星越選鉱場(大正一五年完成)から排出される多量の尾鉱は、サンドポンプによって埋め立て地に流送されることになった。尾鉱で埋め立て、その上部に赤土を搬入して上地造成することに成功したもので、まず山田・前田・王子などを埋め立て、続いて昭和初年には磯浦その他の海面の埋め立てにも利用されるようになった。

 埋め立て地は年々拡張され、昭和七年までに磯浦・惣開・御代島へのびる砂州地域へと広がった。大築港計画の進捗に伴って、さらに東部の沿岸州の発達によって遠浅の海岸であった中須賀から新須賀にかけての地先、即ち東川の川口から国領河口にかけての一帯の埋め立てが進められ、戦前すでに現在の臨海工業地帯の輪郭ができあがっていたといえよう。

 北部海岸に突出している四つの埋め立て地の基部は、昭和五年から昭和二二年の間に造成されたものである。西の御代島との間の部分は昭和七年から同二二年、新居浜港奥の住友金属鉱山別子事業所が立地している埋め立て地は昭和五年から一三年、その東の大江の埋め立て地は昭和七年から一〇年、菊本の埋め立て地は昭和一二年から一五年の間の造成である。

 昭和二八年から三四年にかけての周辺町村との合併によって市域は大幅に拡大したが、その後も毎年のように海岸の埋め立て、工業用地の拡張が進められていった。

 新居浜市全体の三三年以後の埋め立て状況は、三九年までに一三万六二三六平方m、四〇年から四九年の間に一七五万七三三一平方m、五〇年から六一年三月までに一九九万二八七四平方mの計三八八万六四四二平方mである。そのうちには東部開発の土地造成、沢津漁民団地も含まれるが、八八%は臨海工業地帯拡張によるものである(図4-29・写真4-1)。

 この埋め立て地は住友系大企業の工場敷地であり、西から住友共同電力西火力発電所、住友重機械工業愛媛製造所、住友化学工業㈱愛媛工場(新居浜)、住友金属鉱山別子事業所、住友化学工業㈱愛媛工場(大江)、同(菊本)、住友ノーガタック愛媛工場、住友共同電力東火力発電所が林立し、単一コンビナートが形成され、海岸地帯はパイプとタンクで埋めつくされ、煙突が立ちならび、これらの工場で新居浜市における製造業従事者の約三分の二をかかえている。

 この地域の南には多くの関連、下請の中小工場が立地し、東西にのびる昭和通りを挾んで旧市内一帯は住宅、商店との混在地域になっている(図4-30)。

 したがって、新居浜市における工業機能の地域分化は早くから明瞭に現れてきたもので、昭和四一年の土地利用現況によると、当時、市域一五七平方kmのうち八・三%が市街地となっている。市街地のうち二五・四%が工業地域(三・三一平方㎞)で、そのうち準工業地域はわずか六・六%で、九三・四%までが工場だけからなる工業地域である。六〇年三月末現在の都市計画区域・用途地域計画等の決定状況では、市街化区域のうち二八・四%(六・五二九平方㎞)が工業専用地域となっている(ほかに、工業地域六・〇%、準工業地域一・九%)(図4-31)。

 拡散する商業機能

 新居浜市における商業は、別子銅山の発展に伴い、上部地区に商業圏が生まれた。その後、別子銅山の製錬部門が海岸部に移り、臨海地域を中心に住友企業の発展及び関連の産業が発達するにつれて、海岸通りにも商業圏が生まれることとなり、やがて昭和通りを中心に本町商店街、昭和通り商店街が形成されるようになった。昭和三一年には商業の近代化を図るため、新居浜小学校跡地にモデル商店街を建設、同三七年に当市最初のアーケードが銀泉街に建設されるなど、ここに商業の核がつくられるに至った。また、同五一年夏から大型スーパーの進出が相次ぎ、従来からの大型店舗と地元小売店舗とにより、住・工・商の混然とした一大商業圏が形成された。

 一方、市域形成の過程の中で、自然発生的に形成された各地の商店街が、そのまま包含される形で分散的に存続し、発展してきた。さらに近年の人口、購買力の川西地区からの流出、上部・川東両地区での伸長によって、従来の小売商業の立地パターンに大きな変化が起こってきた。中心商店街の力の相対的弱体化、モータリゼーションの進展や市内道路交通の未整備等によって不振に陥りつつある商店街、他方では、新しい状況の進行とともに、人口増加地区に新しい小売機能が自然発生的に出現し、また大型店が状況変化に即応する形で立地している。中規模店や生協店舗の市街地郊外への立地が目立ち、旧市内においても大型店の立地が分散し、拡散化の傾向を示してきた。

 現在、市内商業地は二六商店街に細分され、大別すると旧市内・上部・川東の三地区に分かれている。中心商店街としての昭和通り商店街、登道・銀泉街商店街、駅前性商業機能を担う新居浜駅前商店街、地区センター機能が望まれる喜光地商店街のほか、近隣性機能に重点がおかれる周辺街区として病院前・大生院・中萩・山根・多喜浜駅前・沢津西などの商店街がある。

 中心商店街

 新居浜市の中心商店街は、臨海部の工業ゾーンと居住地を結ぶ通勤路上に位置しており、昭和通りを軸とした東西二・二kmの延長と登道を軸とした南北一・四kmの延長、そしてこの二本の主軸を斜めにクロスする銀泉街からなるほぼT字型に近い状態で展開している。

 昭和通りは昭和一二年(一九三七)から形成され、(写真4-23)、新居浜大丸のある一丁目から六丁目の元塚まで幅一一mの通りに面して一〇商店街、約三〇〇店舗(昭和五九年六月現在)が軒を並べている。昭和通りは、段差歩道が設けられているが、東西の主要な交通軸であって、バス路線にもなっており、日・祭日で五〇〇〇から七〇〇〇台、平日で六〇〇〇から九〇〇〇台にものぼる車両交通量があり、町並みを南北に裂いてしまっている。昭和通り四丁目では買い回り品の商店が多く全商店の四分の三を占め、三丁目と六丁目ではその割合は五〇%から六〇%となり、一丁目になるととくに目立った業種はなく飲食店が四分の一を占める(写真4-17参照)。

 大正から昭和初期にかけて栄えた北部の本町商店街は、昭和通りが新設されてからは商店が順次昭和通りに移り、昭和三〇年頃から静かな裏通りの町に変わった。
 昭和通りとT字型に交差する登道は、藩政期には別子銅山―新居浜の口星(浜宿)を結ぶ路線に当たり、銅鉱石の搬出や銅山労働者らの生活物資の輸送用道路であったが(写真4-24)、現在では新居浜市を代表する繁華街である。南北三二〇m、幅八mの全蓋アーケードを設け、カラー舗装による歩行者専用の明るい商店街で、サンロードのニックネームで親しまれている。アーケード街のほぼ中央部の東側に第一種大規模小売店ニチイが立地しておるほか、商店の約半数は買い回り品店である(写真4-18参照)。

 昭和通りと登道が交差する西側に位置する銀泉街は、新居浜小学校跡地に、昭和三〇年以来、計画的に建設されたものである。市民の娯楽設備を完備したモデル商店街の建設が目指され、公園、映画館の設置とともに放射同心円状の街路(延長約一七〇m、幅六m)をもつ商店街となった。緩くカーブした全蓋アーケードとカラー舗装に特色がある。ここも買い回り品店が多い。

 昭和通り、登道は道路に沿って自然発生的に形成されたため、著しく長大な距離範囲にわたっており、拠点商業地らしい高密な店舗の集積に欠ける。主な交通手段はバスとマイカーであるが、駐車場の不足、バス・ターミナルが存在しないなどの問題点を抱えている。さらに、新居浜市における第一種大規模小売店舗四店舗のうち、フジ新居浜店は中心商店街の東方を南北に走る県道・新居浜駅東須賀線に面して立地している。他の三店はいずれも中心商店街の仕組みの中に立地しているが、T字型街区の西端部に新居浜大丸、東部に南海百貨店、南部にニチイ新居浜店という配置構成で、かなり分散した立地形態である。

 喜光地商店街

 喜光地は古来交通の要所で、国道をはさんで開けた別子銅山人口、角野・泉川・中萩にまたがる地域で従来一商業圏をなしていたが、別子水禍後しばらくの間この地が東新の商圏を握っていた。喜光地商店街は、国道一一号に並行する旧国道(金毘羅街道)と別子銅山道(現新居浜-山城線)との交差地点に、T字型に、典型的な街村集落として発展し、上部地区の中心的機能を発揮してきた。別子銅山の全盛期には労働者の買い物客でにぎわっていた古い街並みの面影を残している(写真4-19参照)。

 現在も繁華街としての機能をもち、東西四五〇m、南北二五〇mの長さで、主婦の店を核として約一三〇の商店が集まり、全蓋アーケードの街区が形成されている。圏域は人口増加地区であり、交通の利便性も有するため商業機能が発揮されやすい立地にあるが、古い伝統に培われながら生成されてきた商店街だけに業種構成が偏っており、結果として消費者の日常的な生活利用との間にギャップを生じさせている。一㎞圏内(自転車圏内)に松原(生協)・ママイ(第二種)や中萩商店街・山根商店街などがあり、毎日性買い物において、最も商圏の重なりがみられる地域であるなどの問題を抱えている。

 こうした状況からみると、喜光地商店街の利用のされ方は極めて限定的であり、その買い物圏の範囲も商店街近隣の角野・泉川地区と一部船木地区に絞られているようである。ここでは、買い物客の動向は、周辺に立地してきている食料品スーパーや生協ストアで日常の買い物の用を足し、選択性の伴う買い物については市の中心地区に立地している主として大型店を利用している。

 業務地区

 東西に走る市道前田-多喜浜線を挾んで、一宮町から繁本町にかけての一帯には、新居浜市の中枢機関が集中しており、典型的な公官庁街を形成している。また、文化施設も多く建設されている。
 昭和一二年一一月の新居浜市制実施により、将来東新地方を一丸とした大新居浜市とするため、市の主要建物を順次将来の都心となるべき位置に造るべきだとして、神明町(現一宮町)繁本町付近を中心として官庁街とする方針を決定した。当時広々とした田園地帯であったこの地域に、以後次々と官公庁が建設されていった(図4-32)。

 ただショッピング機能とともにシティ・センターを形づくるはずの都市的・社会的諸施設が、中心商店街のT字型区域の南端地点から南東の方向へ約一㎞の距離を隔てて集積してしまった。このことは「都市中心商業地」と「公共業務地」とが位置的に分離し非効率的な構造となっているとの指摘がある(写真4-25・26)。




図4-29 新居浜市の公有水面埋め立て地
図4-29 新居浜市の公有水面埋め立て地
図4-30 新居浜市の主要工場の分布
図4-30 新居浜市の主要工場の分布
図4-31 新居浜市の都市機能
図4-31 新居浜市の都市機能
図4-32 新居浜市の業務機能の集中地区
図4-32 新居浜市の業務機能の集中地区





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惣開周辺の概要
 新居浜市の海岸に連なる臨海工業地帯,その発祥の地が惣開だった.現在の惣開周辺は,臨海工業地帯の一部として,住友金属鉱山株式会社,住友化学株式会社,住友重機械工業株式会社,住友共同電力株式会社等の工場が立ち並ぶ.
 明治中期,海岸に突如現れた工場,それが惣開製錬所であった.永年山で行われていた銅製錬であるが,明治21年から惣開で操業が開始された.
 明治26年別子鉱山鉄道(写真3)が敷設され,明治32年には別子鉱業所本部が旧別子から惣開へ移転し,さらに重要な拠点となる(写真4・写真5).明治33年,別子鉱業所機械課(現住友重機械工業)の近代的な工場が完成し,明治37年末には火力発電所(現住友共同電力)も建設された.煙害問題により製錬所は四阪島へ移
転され,明治37年末,惣開製錬所での銅製錬は終結した.
 明治43年には,火力発電所が増設される.大正2年,製錬時に出る亜硫酸ガスから硫酸・過燐酸石灰を製造するため,住友肥料製造所(現住友化学)が設立され,工場建設が進められた.大正8年,新居浜電錬工場が完
成し電気銅の生産を開始,大正11年,四阪送電用の海底ケーブル敷設,大正14年,新居浜選鉱場が完成,選鉱法が改良された.
 また同じ大正14年,化学部門が株式会社化され独立し,昭和5年には窒素工場が完成する.昭和に入り,銅山なき後を見据えた都市計画により,新居浜港湾整備・工場用地造成が遂行され,昭和9年には機械部門が株式会社化され鉱山から独立した.昭和10年,アルミニウム製錬工場及び第二火力発電所完成.惣開から始まった工業地帯化は,昭和に入り瞬く間に拡大し高度経済成長期を迎えさらに飛躍した.
 見違える重化学工業地帯へと発展を遂げた惣開周辺は,現在も工場が林立し新居浜市の年間製造品出荷額は1兆円に届こうとしている.

絵葉書の考察
A 住友別子鑛業所新居濱肥料製造所
The manufactory of manure Niihama Sumitomo Besshi
Mining.
 絵葉書 A( 図3)には,正面に住友肥料製造所が写っている.住友肥料製造所は,現在日本有数の総合化学メーカー住友化学株式会社の草創期の姿である.
 現在の住友化学株式会社の事業分野は,基礎化学,石油化学,精密化学,情報電子化学,農業化学など多岐にわたり,連結子会社143社,従業員27,828名,売上高1兆6,209億円(2009年度)11の大企業となっている.
 当時の住友別子鉱業所は,銅鉱石製錬時に発生する亜硫酸ガスの煙害問題に直面していた.明治21年から操業していた惣開製錬所にかわり,明治38年に四阪島へ製錬所を移すも煙害は解消されず,問題は深刻化していた.そのような中,全体からみると若干量ではあるが,煙害を抑える一つの方策として,煙害の原因となる硫化鉱を四阪島から引き取り,これから硫酸・過燐酸石灰をつくる肥料製造所の創設が計画された.
 これが住友化学の発祥であった.大正2年9月22日に設立された住友肥料製造所は,工場敷地に7.8haがあてられ,同年11月から工場の建設に着手した.しかし,大正3年7月に第一次大戦が勃発したため,技術導入を予定していたハルトマン社(ドイツ)の技師の来日も機械類の輸入も不可能になりそうになった.
 そこで,肥料製造所は,塔式硫酸工場の建屋が完成しただけで工事を中止,鉛室硫酸工場に計画を切り替えた.
 大正4年8月硫酸工場の鉛室1基が完成し21日から運転を開始,続いて過燐酸石灰工場も9月3日から運転に入った13.過燐酸石灰(写真6)を初出荷したのは大正4年10月4日のことであったが,売り出しの日から注文が殺到し,鉛室1基では応じきれないため,大正5年には鉛室3基とした.ちょうど写真には,4号塔式硫酸工場の建屋と1号2号鉛室硫酸工場の建屋,そして過燐酸石灰工場が写って
いるが,3号鉛室硫酸工場の建屋と過燐酸石灰工場の西
側建屋はまだ完成していない.まだ建てられていない建
屋を図4内に点線で示す.よって大正4年10月から大正5
年の間に撮影されたことが分かる.この未完成建屋を含
めた第一期の計画が全て完成したのは,大正6年3月15で
ある(写真7).住友史料館所蔵の大正9年の地図(図5)
でも第一期計画完成建屋を確認することができるため,
新居浜肥料製造所の建屋を色付きで示す.その後,住友
肥料製造所は,大正10年2月26日に組織を改め「住友合
資会社肥料製造所」となり,大正14年6月1日には住友合
資会社の直営から株式会社に改め,「株式会社住友肥料
製造所」となった16.昭和3年11月臨時窒素工場建設部
を設け計画を進め,新しく埋め立ての完了した敷地に窒
素工場建設の鍬を入れたのは昭和4年6月,窒素工場の第
1期全工場完成は昭和5年12月であった17(写真8).さら
に昭和9年には「住友化学工業株式会社」に社名変更し
ている18.絵葉書には「住友別子鉱業所新居浜肥料製造
所」とあるので,発行は大正10年2月26日以前の発行と
考えられる.

 肥料製造所は埋立地に建っているが,左の地面は州と
なって御代島へと続いている.この写真は州に立ち撮影
されている.川から海に流れ込んだ土砂が潮の流れによ
り島まで堆積し,潮が引くと大きな州が海面から現れ,
御代島まで歩いて行くことができた19.昭和初期,御代
島は海藻が多くチヌ等の魚がよく獲れるので,一般の人
も自由に州を渡って魚釣りに行っていた20.住友銀行(絵
葉書Xにて詳述)の東側を通ると,肥料部裏の通用門手
前の波打ち際から州へ通じる道があり,誰でも自由に通
行できたのである.

 宛名面をみると,仕切線が確認できない.仕切線のな
い葉書を発行できるのは,明治33年から明治40年の間の
はずである.しかし,写真に写っている工場の建設着工
開始は,前述のとおり大正2年11月であるため,矛盾が
生じている.後にも同様の絵葉書が出てくるが,前述「絵
葉書について」の章で述べたとおり,発行時期不明絵葉
書として取り扱う.以上より,この絵葉書の写真が撮影
されたのは,大正4年10月から大正5年の間と推定される.

B 住友別子鑛業所新居濱肥料製造所
 絵葉書B(図6)に使われている写真は,絵葉書Aと全
く同じであるため,写真撮影推定年月も前述絵葉書A同
様,大正4年10月から大正5年の間となる.この絵葉書は,
愛媛県歴史文化博物館が所蔵しているが,灘口慎之氏に
よる寄託資料22である.Aの写真面右端は切り取られた
痕があり,綴られていたと思われるが,Bは切り取られ
る前の状態であり,「住友別子鑛業所繪葉書」に綴られ
ている15枚のうちの1枚である.Bの宛名面もA同様仕切
り線はない.撮影は大正時代でありながら,あるはずの
仕切り線がみられない発行時期不明の絵葉書である.

C 住友別子鑛山株式會社 新居濱製作所
 絵葉書C(図7)には,新居浜製作所の工場内が写っ
ている.新居浜製作所は,現在の住友重機械工業株式会
社の前身である.現在,従業員数約15,000人,年間売上
高5,161億円23の大企業となっている住友重機械工業株式
会社であるが,100年前は住友別子鉱業所内の部署の一
つであった.明治26年,職員8名,工員60名の工作係で
あったが,明治27年に機械課に改組され昇格した.採鉱・
選鉱・製錬・精製の全工程にわたり,設備・機械の設計,
据え付け,修理の業務を担当した.写真には電灯が写っ
ているが,工場内に電灯がついたのは,もう少し後であ
る.明治35年6月端出場発電所(出力90kW/50サイクル)
が新設され,新居浜製作所工場電灯,諸機械の電源等,
惣開社宅,端出場工場等で電気が使われるようになった.
 明治33年には,機械課の近代的な工場が製錬所北側
敷地に完成する25が,別子銅山記念館所蔵の明治末頃の
地図(図8)にも,その工場の配置が記載されている.

機械課の工場を丸で囲み示す.この図8には,明治38年
12月完成の発電所が点線で描かれているため,明治37年
から明治38年11月の図面であることが分かる.別子鉱山
機械設備の近代化が進む中,明治末に四阪製錬所が,そ
して大正に入り肥料製造所,電錬工場,四阪製錬所大改
造,新居浜選鉱場,火力発電所等が建設されたが,機械
課はその建設を担当し,修理をしながら独自の機械(交
流モーター・直流発電機等)を製作するようになってい
た26.大正9年,既に敷地1万坪,建坪2000坪,従業員500人,
生産高400 〜500万円の規模の部署になっていた機械課
であるが,別子鉱山の近代化のための建設作業も一段落
したため,規模が拡大した機械課を縮小するか発展独立
させるか,大問題になった27.このような中,昭和3年7
月1日「新居浜製作所」を設立,独立採算制を確立し内
売外売を基盤とする経営が開始されたが,この出発は,
「やれるものならやってみろ,やれなきゃ修理工場に落
とそう.」といったことであった28.折からの不況に直
面し苦難の道を歩んだが,昭和7年以降日本経済が不況
から脱し,製作所も受注増加,利益を計上できるように
なったため,昭和9年11月1日に「住友機械製作株式会社」
として独立した29.その後,磯浦鋳物工場を改築し,埋
立て第5・6区の工場が拡張され,起重機・鉱山機械・電
機品・一般産業機械の製造販売を行う30.社名も,昭和
15年に「住友機械工業株式会社」,昭和44年には「住友
重機械工業株式会社」へと変更していった.社名が「住
友別子鉱山株式会社 新居浜製作所」であったのは,昭
和3年7月から昭和9年10月の間である.よって,独立採
算制の下に新事業として育成されていたその時代が絵葉
書に写っていると考えられる.

宛名面から分かる発行期間は,大正7年3月1日から昭
和8年2月14日.以上より,写真が撮影されたのは,昭和
8年2月14日以前と推定されるが,その中でも昭和3年7月
以降の可能性が高いと考える.

D 住友別子鑛業所鑛石積載の景
絵葉書D(図9)には,鉱石積載用と思われる舟が写っ
ている.明治37年,四阪島製錬所行きの鉱石船積用線路
が敷かれ,昭和11年まで使われた31.昭和初期において
も,この辺りには小型の舟が数多く係留され,四阪丸や
御代島丸に連結されていた32.右に給水塔が写っている
ため,線路が敷かれていることが分かる.この給水塔は,
惣開全景写真にもはっきりと写っているため,その年代
を知ることができる.給水塔奥に写るのは,機械課の工
場である.左から2番目に大煙突が写っているが,大煙
突の手前(南東)に位置した溶鉱炉は明治38年に廃止さ
れ,ここも機械課の工場となった33.別子銅山記念館に
所蔵されている図面(図8)には,発電所建屋が点線で
記されている.左奥に写る建物は,その明治38年12月完
成新居浜発電所の関連建屋ではないかと考えられるが,
そう仮定すると,大煙突とその建屋の間に明治43年34に
完成する増設された発電所建屋が写真に写っていないた
め,明治43年以前に撮影されたと考えられる.





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